鹿野山神野寺
公式サイト

鹿野山 神野寺は推古天皇六年(五九八)、聖徳太子によって日本で4番目に開かれた、関東最古の名刹(古寺)であり、関東三大修験道(鹿野山、筑波山『茨城』、榛名山『群馬』)の一山であります。

神野寺縁起

推古天皇6年(598)聖徳太子の開山により始まりました。現在の地名ともなっている鹿野山は、当山の山号であり、太子が当寺を建立する際、野生の鹿が沢山集まった事からインドのお釈迦様の初転法輪の地(鹿野苑)にちなみ、山名を名付け「鹿野山」名称の発祥の寺院であります。現在では、熊野峰(鹿野山神野寺)・白鳥峰(白鳥神社)・春日峰(春日神社)の三峰を総称して鹿野山といわれており、関東三大修験道『鹿野山、筑波山(茨城)、榛名山(群馬)』の一山でもある名山でご祈祷(お祓い・お参り)の霊山です。

天安元年(857)には、慈覚大師が再興しています。平安時代から鎌倉時代にかけては天台の道場として栄えました。永正年間(1504)には高野山から弘範上人が来山して、真言密教の法灯を立てました。弘範上人は、真里谷城主(木更津市真里谷)真里谷信勝の協力を得て荒廃していた神野寺を復興しています。さらに、天文年間(1532~1555)には里見義尭が神野寺を帰依し再興をはかっています。天正18年(1590)徳川家康が関東を領有すると、同年7月に神野寺に朱印の禁制を与えました。それによると、軍勢などが神野寺に対して乱暴することや放火などを厳禁しています。天正19年(1591)に家康は寺領並びに格式十万石の大名格を寄進しています。また、この年家康は家臣である佐貫城主内藤家長(富津市佐貫)に伽藍や僧坊を造営させました。元和7年(1621)12月坊中から出火して堂宇を焼失しました。その後、第7世源瑜が中興し新義真言宗の法灯を伝えました。また、第14世利珊も堂宇や僧坊の復興を計画し、宝永5年(1708)に再建に成功しました。この時、松平勝隆は用材を寄進して利珊に協力しました。

現在の本堂はこの時建設されたものであります。大正6年(1917)9月30日台風の襲来によって、樹齢数百年を数える杉の巨木数十株が倒れたほか、仁王門・表門・その他の建造物が倒壊しました。その後、数年にわたって境内の杉などの樹木が次々に伐採され神野寺の杉林は見る影を失ってしまいました。その後、第30世楠純隆が再建や修繕に力をつくし、ようやく昔のような神野寺の景観を取り戻しました。現在は真言宗智山派(総本山が智積院、大本山が成田山新勝寺・川崎大師平間寺・高尾山薬王院)に属し、境内地(約40,000坪、東京ドーム約3個分)には仁王門・本堂・経堂・六角堂・鐘楼堂・五重の石塔・天満宮・奥の院・表門・宝物殿・太子講堂・道場・宿坊・庫裏などが点在しています。

聖徳太子像
聖徳太子像(16歳)
本堂内裏側

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